逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝㉘今ここに居られない私

私はいつも
レンズを覗いているように
現実の世界から離れて世界を見ていた気がする。

 

自分も人と直接関われないし
人も私に直接関わってこれないような感覚。
現実を現実と感じづらいような感覚。

 


私はいつも観察者のようだった。

 

 

記憶をたどると
その場を過ごしている記憶よりも
その場を見ている記憶の方が多い。

 

その場にいて
楽しんだり感じたり味わったりするのではなく
ただ見ている。

 

 

 

これまで書いてきたように
私の毎日は
言葉にならない衝撃的な出来事の連続だった。

 


そういう怖さや衝撃が増していくと
私が現実世界を覗いていたレンズは

どんどん分厚くなっていく。

 

望遠レンズで現実世界を見るように
現実から遠のいていく。

 


現実から離れていくと
現実を観察することも 難しくなる。

そうすると
深く深く自分の世界に入っていってしまうのだ。

 

この深く深く自分の世界に入っていっている状態が
私の様々な心の病気を引き起こしていたのではないかと思う。

 

この心の病気のことは
この次の回に話をさせてもらうとして
ここでは比較的浅めに自分の世界に入りこんでいる時の話をする。

 

 

 

こんなふうに
現実に近づいたり
現実から遠のいて自分の世界に入ったりと

 

程度の差はあれど
私にはずっと「観察をしている」感覚があった。

 


人が私を見ても
ただ黙って観察しているような姿に見えるわけではない。

 


それほど深く自分の世界に入っていない状態
あるいは
深く入ってもすぐに戻ってこられる時は

 

人から見ると
普通の人と同じように
私は現実を生きているように見える。

 

 

 

これまで書いてきた私の自叙伝を読んだ人は
どんな印象を持っただろうか。

 

特に養父母との関わりの部分では
内側であれだけのことを考えていること
内側で考えていることと外側で行動することの違いに

 

子どもらしくない、純粋ではないと
恐ろしい気持ちや驚くような気持ちになったのではないだろうか。

 


それは当然の感想である。

 

子どもらしく順調に育っている子どもは
人を観察することよりも
人と楽しむことを優先させたり
目の前の興味のある物を観察したり楽しむことを優先させたりする。

 

目の前のことに集中できているのだ。

 

 

 

・目の前のことを楽しむよりも人を観察する
・観察をして人との対処を考えてから行動に移す

 

という私の強固な癖は

 

養父母との関わりや
学校で異端の者として過ごす環境で身につけてしまったものだ。

 

 

 

養父母のように
いつどんな攻撃をしてくるか分からない人物とずっと過ごしてきた。

 

自分の発達障害愛着障害の症状で
周囲の人と上手くやることが難しく人から傷つけられる経験が多かった。

 


言ってみれば
自分の身にいつ危険が及ぶか分からない状態だ。

 

だから
目の前のことを楽しんでいる暇などない。

 

身を守るために
しっかりと観察をして対策を立てなければならなかったのだ。

 


私と似たような体験を持つ人なら
きっと同じように
「目の前のことを楽しむよりも観察をして対処する」
癖が身についてしまっているのではないかと思う。

 

 

 

この癖のせいで
私はかなり生きづらかった。

 


観察をして対処をすることの何が生きづらいのかと
思われるだろうか。

 


その場に応じて

観察をして対処をする分にはいい。

 

しかし
つねにこれが優先されてしまうとどうなるかというと
人生を楽しむことが出来ないのだ。

 

先ほど書いたように
目の前のことを楽しんでいる暇などなく
いつも観察をして対処をすることに追われてしまうからだ。

 


実際に脅威があった時や対処が必要だった時は
それで良かったのだと思う。

 

しかし
もうそんな必要がなくなっても

これまで書いてきた対処を

いつまでも続けてしまっていたのが問題だった。

 

 

 

私は自分は変だから
人と同じ事をしなければならないと思っていた。

 

だからその場その場で平均的な振る舞いを知ろうと

必死に観察をして真似をする。

 

 

 

私は変だから
それを人に見せてはいけないと思っていた。

 

だから自分が漏れ出てしまわないように
自分を隠すのに必死だった。

 

 

 

私は衝動的に変な行動をとってしまうから
自分を止めなければならないと思っていた。

 

だからいつも自分を観察して
自分を抑えていた。

 

 

 

私は自分のままでいると
人に迷惑をかけたり嫌われたりするから
つねに人の期待に沿ったり人を喜ばせなければ

人と一緒に居てはいけないと思っていた。

 

だからいつも目の前の人を観察して
喜ばせようとすることに必死だった。

 

 

 

とにかくいつも
観察して考えて対処することで手一杯で

 

普通の人のように
普通に目の前のことだけに集中することが出来なかったのだ。

 


例えば

 

友人とカフェに行くだけでも大変なことだ。

 

待ち合わせの時から
友人の今日の機嫌を伺う。
自分のファッションがどう思われているか気になる。

 

カフェについたら
カフェの店員の表情を伺い変だと思われていないか気にする。

 

周囲の客に変だと思われていないか気にする。

 

友人を楽しませようと笑わせようと話をする。

 

自分も楽しいフリをしようとする。

 


カフェの雰囲気を楽しんだり
友人との会話を楽しんだり
カフェの食事を味わったり

 

そういう感覚が一切なかったのだ。

 

 

 

恋人がどこかに連れて行ってくれても

 

恋人が自慢に思えるように
綺麗に完璧にオシャレをしなければならない。
振る舞いもちゃんとしなければならない。

 

恋人が連れてきてくれたから
喜ばなければならない。

 

恋人とデートをしているのだから
楽しまなければならない。

 


そんなふうに色々と考えて
相手を喜ばせること
自分が楽しんでいるように見せることに必死で

 

私自身が
その場所を楽しんだり
恋人と過ごせることを嬉しく思ったり
何かを一緒にすることを楽しんだりすることが
一切出来なかったのだ。

 

 

 

全てがこのような感じだった。

 

だから何をしていても楽しいわけがなかったし

 

誰といても何をしていても
私自身は何も感じられなかった。

 

 

 

これだけではない。

 

会話に集中していると
いつどこにいてもその会話の世界に入りこんでしまうのだ。

 

その人が会社の話をすれば会社に
その人が家庭の話をすれば家庭に
その人が過去の場面の話をすれば過去の場面に入りこむ。

 

その人の話の中の感覚に入りこんで
今の自分たちの感覚はどこかにやってしまう。

 


だからせっかく
綺麗な景色のところにいっても
美味しい物を食べていても
面白いことをしていても
好きな人と一緒に居ても

 

私にはただ話をしている感覚しかなくなってしまって
何も感じられなくなってしまうのだ。

 

結局楽しんでいるようで
また私は目の前のことを楽しめないことになる。

 

 

 

このように私は
すぐに自分の世界に入りこんでしまって
今、目の前のことを感じられなくなってしまうのだ。

 

 

 

今はこれが少し良くなってきた。

 


私の何が変わってきたのだろうと思う。

 

 

「自分はこれで良い」

 

そう思えるようになったからかもしれない。

 


自分を作らなければ選ばれないのなら
選ばれなくてもいい。

 

私は私の意思で自分を洗練したいけれど
人のために綺麗に作らなくていい。

 

そう思うようになって
頑張らなくなった。

 

 

 

あとは

 

前に書いたように
すべての責任を負わなくなった。

 


私が何もかもをやらなくてもいい。

 

会話も空気も楽しむことも
私だけで作るのではなく
人と一緒に作っていくものだ。

 


それに作ると言っても
良いものを作らなくたっていい。

 

つまらない会話も不穏な空気も楽しめない時間も
大事な人と一緒に作ったなら

それもまた楽しいと思えるようになった。

 


作り込むことじゃなくて

 

「そのものをどう今楽しむか」

 

が私には大事だ。

 


今ここに居て感じられること。

 

私には出来ないことだったから
とても新鮮で嬉しいことなのだ。