逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝16 不安定で妄想的な養父母

また少し養父母との生活の話をさせてもらおう。

 


まずは

 

養父母がどんな人間だったか思い出してみる。

 


2人とも学歴は中卒。
もちろん中卒でも頭の良い人も人格的に立派な人もいる。
しかし養父母は
知識も教養も無く、人格的に破綻していた。

 


養父は7~8人兄弟の末っ子で甘やかされて育ったようである。
昭和20年代生まれで
20代から大型のバイクを乗り回していたということは
相当甘やかされていたのだろう。

 

親戚づきあいは一つ上の姉だけで
冠婚葬祭などの行事に参加した姿を見たことがない。
放蕩息子だったのだろうと予想される。

 


養父は俳優の目黒祐樹に似ていると言われていて
昔のイケメンで見た目は良い方だったようだ。
「俺はアラン・ドロンに似ている」とか
「俺はカーク・ダグラスに似ている」とか
そこまでのイケメンではないのに
本人も異常に顔に自信を持っていた。

 

その自慢の容姿でバイクに乗って女性をナンパしては
ヒモのような生活を送っていたようだ。
養母も出会いはナンパだ。

 

確か養父が34歳ぐらいで6歳の私を引き取っている。
養母は28歳ぐらいだったと思う。

 

ナンパで結婚して
いきなり養子を迎えて家族ごっこをする。
もうここからすでに異常だ。

 

しかも私を迎えた時
養父は無職で養母はクラブのホステス。

 

どう嘘をついて
私を養護施設から引き取ったのだろうか。

 

良い養育を受けられる想像はつかないはずだ。

 

後になって考えたときに
簡単に私をあんな養父母に引き渡したことに
施設に対して怒りを持っていた。

 

 

 

養母は元々美容師だった。
多分知能に少し問題があったと思う。
性格的にとても依存的で何でも養父の言いなりだった。
養父が働かないからだと思うが
美容師を辞め、ホステスになった。

 


当然、養母は親に養父との交際を反対される。
養父に「実家と絶縁しろ」と言われ絶縁。
交際を反対する友人とも、養父の命令で絶縁。

 

人間関係が養父しかない状態だから
養父の言うことが全てという感じだった。
完全に洗脳の手口だ。

 

養母は最初の頃こそ養父とケンカをしていたが
養父によって帰る場所も無くされ、頼れる友人もいなくなり
次第に養父に完全に洗脳されていって
言いなりになっていった。

 


客観的に見ると養母も可哀想な人ではあるが
小さな子どもを全く守ろうとしない
虐待を見て見ぬふり、虐待への荷担をした養母に対しては
私自身がそんな感情は持つ必要は無いと思っている。

 

 

 

養父母のことを思い出すと
頭がグルグルと混乱し吐き気がしてくる。

 

これは
「虐待のつらい思い出がよみがえる」
つらさとは違う。

 


暴力や暴言、性的虐待やネグレクト
大変なことは沢山あったが
私の頭の中が混乱させられて苦しかったのは

 

養父の嘘しかない話を本当のように聞かなければならなかったこと。

 

養父の一切の一貫性が無い言動にも黙って従わなければならなかったこと。

 

養父の現実とかけ離れた誇大妄想を信じなければいけなかったこと。

 

そんな養父を崇拝して共に洗脳しようとする養母の圧力。

 

こんなことだった。

 


多分
生まれつき知能が高かった私は
素直に洗脳される事はなく
ただただ頭の中が混乱する中
毎日、自分を保とうとすることとの戦いだった。

 


心理学を学んで知った
「プレコックス感」

 

意思の疎通ができない

理解できない

なんとも言えない感覚。

 

もしかしたら私は
小さい頃から毎日
養父母に対してこれに似た感覚を持っていたのかも知れないと思う。

 

これを一日中何年も感じ続けたら
それはもう頭がおかしくなりそうになるのは当然だ。

 

 

 

今だから分かるのだが
養父は完全なる自己愛性人格障害だった。

 

自己愛性人格障害を持つ人の中には
本当に能力が高い人が少なくない。

それであれば

周囲の人間は被害を受けながらも

多少の敬意は持てるだろうし

多少の恩恵は受けるのだと思う。

 

しかし養父の場合
個人的な感情を抜きにしても
能力は高くなかった。

尊敬できる所は何一つない。

周囲の‪人間が受ける恩恵は何一つない。

搾取されるだけだ。


あったのは容姿の良さと
自己愛性人格障害からくる根拠の無い自信だけだ。

 

 

この二つがあるだけで
異性はかなり洗脳されてしまうようで
養父が女性を洗脳する能力は強力だった。

 

養母はもちろん
のちにスナックを経営してホステスとして採用した
多くの女性が洗脳されていったのを見ていた。

 

 

 

私も暮らしはじめて1年くらいは
養父をすごい人だと思っていたと思う。

 


「自分は大工の中でも珍しいすごい技術を持っている」
まるで自分は天才というふうにいつも言っていた。

 

たまに大工の仕事に行っては
「俺にしか頼めないらしくて俺にしか出来ないことをやってやった」
という自慢が何時間も続く。

 

なぜか家で大工道具を出して
何も分からない私たちに仕事を披露しだす。
何も分からないから、すごいと感嘆する。
養母はいつも
「お父さんはすごい人なんだよ」
と呪文のように繰り返す。

 

多分養母は本気でそう思って言っているから
小学校1年生の私は完全に騙されていた。

 


そんなすごい天才的な大工なのに
新たな職場に行くと大騒ぎしては
仕事には数日しか行かずにいつのまにかいつも家に居る。
また新たな職場に行って数日して家に居る。

 


私は小さい頃は
養父は天才的な大工だから月に一回行くだけでも
生活できるお金がもらえるんだと思っていた。
養母が月に一回だけでも
「お父さんはすごい人だ。働いてくれて感謝しないと。」
と言っていたからだ。

 


多分一切仕事が続かないことを
「天才の自分が満足する職場がない」
と言い訳をして
本当は仕事を続けることが出来ない人間だっただけだ。

 

 

 

スナックを経営しはじめてからは
養母を働かせ
自分は何日かに一度2時間ぐらい顔を出すだけだった。

 

毎日ずっと家に居て
テレビを見て映画を見て
私に妄想的な自慢話をしている。

 

夜ご飯の後21時くらいから2時間ぐらい眠って
養母が帰ってきて
朝6時くらいからまた養母と一緒に14時ぐらいまで寝る。
やたらと寝る。

 

それでも養母は
「お父さんはスナックのマスターとして頭を使って
 この店を繁盛させている」
と言っていた。

 


毎週末、競馬に精を出す。
私は養父のよく分からない理論の予想を真面目に聞かなければならない。
負ければその長々とした言い訳を聞きながら
機嫌をとらなければならず
勝てば天才だ、お金を稼いでくれたと大きく感謝をしなければならない。

 

養母は
「お父さんは頭を使って競馬を頑張ってくれている」
「はずれたのは集中させてあげられなかったから」
などという。

 

確実に負け込んでいるのに
毎週繰り返される茶番。
ただギャンブル狂いでお金を使い果たしている人に
「すごい頑張ってくれている」
「天才だ」
「感謝して機嫌をとらなければならない」・・・

 

狂っている。
でもこうしなければならなかった。

 

 

 

何週間かに一度、養父は外泊する。
私はその日を心待ちにしていた。
あの養父が居ない日はどれだけ幸せだったか。

 

養父は親友の家に泊まると行って出かけるのだが
その親友がどういう人なのか何を話したのか
一切の情報がなかった。
養父には友人がいないので唯一の友人に興味が湧いた。
私も小さい頃は聞いていたが
はぐらかしつづけるし、養母も聞こうとしないし
外泊してもらえるのは嬉しいから聞かなくなった。

 

どう考えても愛人だったのだろう。
こんなに分かりきったことを誰も何も言わない状況も異常だ。

 

 

 

養母は
「お父さんは頭が良いのに家の事情で中卒なの」
と養父を天才扱いする。

 

しかし養父は言葉の間違いが多い。
諺や格言の本当の意味を知らずに使い間違えたり
目の当たりを「めのあたり」と読むような間違えを頻繁にしたり
言葉の使い方が全くあっていないようなことばかり。

 

私が小学校2年生ぐらいになると
テレビや学校の先生との会話や
周囲の大人の会話の盗み聞きなどで
すでに私の方が知識が上回ってしまっていた。
つい指摘をしてしまって

ひどい不機嫌にしてしまい大変な目に遭う。

 


小学校3年生ぐらいからは
どれだけ
自分が知らないフリをするか
馬鹿な養父の知ったかぶりに対して
どう驚いて喜んだリアクションを取るかが大きな課題だった。

 

 

 

「うちは貧乏だ」

「お前はごくつぶし」

「金食い虫」

とよく言われていた。


私が必要なものは、ほとんどが人からの貰い物だった。
食べるものも、その頃の貧乏食のメザシばかり。

家賃をいつも滞納していて

自分達が気まずいから私が大家さんに持って行った。

いつも申し訳ない気持ちで持っていくのがつらかったし

大家さんの家の子どもに見下されるのも恥ずかしかった。


給食費もいつも私だけ払えなかった。

クラスでそれを公にされる時代で

いつも情けない、恥ずかしい思いだった。

 

こんな貧乏でも

養父は毎週競馬で何万も使っている。
養父の趣味の大型バイクは何百万もする。

 

貧乏ってどういうことなのか
分からなかった。

 

 

 

養父の機嫌の良いときは
色んな許可が下りる。
でも機嫌が悪くなれば簡単に撤回される。

 

遠足のおやつ代
学校で必要な文房具
友人のうちに遊びに行って良いかどうか
公文に通っていいかどうか

 

許可を得るときに
勇気を出して必死に懇願し機嫌をとり
やっとおりた許可も、ある日突然簡単に却下される。

 

無事にその日が来るまでいつも緊張していた。

 

 

 

こんなふうに
養父母のやる事なす事が

私には理解不能なことばかりだった。

 

私はただ頭の中が混乱する中
自分を正常に保とうと必死だった。

 

普通の子どもが
知的好奇心から様々な事を吸収し学んでいく時期に

 

私は学ぶ物を何も与えられず
学んではいけないと思わされ
親の妄想に付き合う術や
親の機嫌をとる術だけを身につけていったのだ。