逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝2 どこの馬の骨ともわからない

自分の人生を振り返った時に
記憶のあるのはどこからだろうかと考える。

 


母のお葬式だろうか。
いや、その前に母に抱かれて聴いた歌声を覚えている。
抱かれながら見た公園のフェンスや花も覚えている。

 

歌は「バラが咲いた」だった。
6歳くらいの時に
「小さい頃公園でこの歌きいた!」って言っても信用されなかったな。
そりゃそうか。

 

定かじゃ無いんだけど3~4歳の時に母を亡くしているから
その頃の記憶。

 


養護施設から引き取られてからの記憶は多い。
小学校に上がるちょっと前かな。

 

それまで私は
どんな生活をしていたんだろうとよく考える。

 

 

 

普通の人は
幼少期の出来事、自分の記憶が抜け落ちているところも
親や親戚が覚えていて教えてくれるものらしいね。

 

「親がこうだったって言うんだよ」
「小さい頃の話されるのうざい」
なんてよく聞いたな。

 


私が人に対して羨ましかったことの一つに
自分以外の誰かが自分の人生を見ていてくれて
それを教えてくれることだ。

 


3歳ぐらいまでの私を見ていた母は亡くなってしまったし
養護施設に入るまでは転々としていたし
養護施設のスタッフももう分からないし
虐待を受けた養父母から逃げ、もちろん話を聞けるわけがない

 


これまでの私の人生を見てきた人は私しかいないのだ。

 


この何ともいえない重たい気持ちは

なかなか理解出来ないんじゃないだろうか。

 


私の頑張りを見てくれていなくてもいい
好意的じゃなくていい
私がどこで何をしていたかの事実だけでいいから教えて欲しいと願う。

 


幼少期の自分のこと
過去の自分のことを知っている誰かがいて話が出来る

 

それはどれだけ大きな温もりだろう。

 


私が付き合いが長い友人と
やたらと振り返って昔の話をしたがるのは

 

私がどこで何をしていたのかを知っていてくれて
私をしっかりと見ていてくれた。


それを確認して嬉しくて仕方ないからだと思う。

 


自分がどこで何をしていたのか分からないだけではない。

 

 

 

自分の出自が分からない。
だから自分のアイデンティティが分からない。

 

この大きな不安も
普通の人には理解されないことだろう。

 


私が心が回復するまでは
自分がどんな人から生まれたのかどんな血筋を受け継いだのか
それを知りたくて仕方が無かった。

 


自分はいきなり世の中に発生したような
自分の中に何も確たるものがないような
自分が得体の知れない人間であるような気味の悪さ。

 

この感覚がいつも漂っている感じなのだ。

 


自分自身を得体の知れない人物だと思っているから
自信なんてあるわけが無かった。

 

 

 

自分だけではない。
人もルーツが分からない人間を恐れる。

 

文字通り「どこの馬の骨とも分からない」という
恐怖を感じるのだ。

 

私は人の神経を逆なでする人間だったから

腹いせに、このままの言葉をぶつけられたことが何度もある。

 


出自が分からない私は
人と深く付き合うようになるまでがいつも困難だった。
友人もそうだし恋人もそうだ。

 

実際に相手の親が難色を示したり猛反対したりして
別れたことも何度かある。

 

よりによって私が付き合う人物は
みんな育ちがよく

言い方は悪いがマザコンで、母親に聞かれれば何でも話してしまう人ばかり。

「どんな娘なの?」
「仕事内容は?」
「親御さんのお仕事は?」
私の話を逐一報告する。

 

養護施設出身で
引き取られた先から逃走した女性

 

そりゃ当然反対される。

 

そして母親と私との板挟みになって苦しむ恋人。
いやいや
私の境遇なんて自分の中にとどめて置けよと思ったものだ。

 


私にとって恋人の母親は脅威で敵でしかなかった。

恋人の親と親しくするのに憧れたし

自分の親のように思いたかったから本意じゃないんだ。

 

 


「身寄りが無いなんて、そんなに気にする事じゃないよね」
と軽く言われたことがある。

 

私の近くに居る人は
私が非常に信頼の置ける人間だと知っている。
すでに私という人間を知っているから安心しているだけだ。

 

「じゃあ想像してみて。あなたは家族・親戚とちゃんとした人が多いけど
 お兄さんが虐待されていた身寄りの無い恋人を連れてきたとき何にも思わない?」

 

その人はこれを聞いた瞬間に絶句した。

 


そう。

 

簡単にいうけれど
虐待され、身寄りがない人間に自分もどれだけ偏見を持っているかを
みんな分かっていないのだ。

 

そんな
「自分は偏見を持たない」
と認めない人たちに

 

「事情を話してみて」
としつこく食い下がられ素直に話した途端
拒否反応を示されることをどれだけされてきたか分からない。

 


私自身が虐待されたことや身寄りがないことを
殊更に不幸だと思っていなくても

 

周囲の人によって
虐待されたことや身寄りがないことは
「触れてはいけない嫌な話」であり
「衝撃的なことで隠さなければいけない話」であり
「可哀想な人」「アウトサイダー」にされてしまうのだ。

 


思い出してみると
こんな周囲の人の反応によって
私は少しずつ

「自分は不幸な人」だと思わされてきたんだと思う。

 

周囲のこんな反応が無ければ
私はあっけらかんと図太く生きていたんじゃないかな。

 

自由が何より一番欲しいものである私には
親や兄弟が居ないなんて親戚が居ないなんて
自分の人間関係をゼロから構築できるなんて
望ましいことでしかないんだから。

 


今は血縁というものがどうでもよくなった。
いややっぱり少しは憧れるかな。

 

血が繋がっているという安心ってどんなに大きいんだろうか。
血が繋がっているというだけで得られる絆はどれだけ強いんだろうか。
いつも羨ましい。

 

だけど機能不全の家庭で育った人の悩みを本当に沢山聞いてきて
血縁というものが馬鹿らしくなった。

 

血が繋がっていたって
何も分かり合えていない。
暖め合っていない。

 

それどころか
血の繋がりを盾にとって
人を縛って苦しめて追い詰める。
血の繋がりに甘えて
人を大事にしない。

 

血が繋がっていることに
なんの意味があるんだろうと思ってしまう。

 

赤の他人の私が
そんな人を必死に理解して暖めて
凍り付いた心を溶かしていく。
弱く空っぽだった心を
私の心を受け継いでもらい強くし巣立たせる。

 


これは不思議なことだけど
その人のルーツの大部分は
その人が影響を受けたものなんだと思うと腑に落ちる。

 


「私たちは美由さんに育て直してもらったけど
 美由さんはどうしたの?」

 

クライエントさんによく聞かれることだ。

 

私自身も自分に対していつも不思議に思っていた。
自分の世話をしてくれた人が思い当たらないのだ。

 


恩人の話になると
みんな両親や兄弟、先輩や恩師や友人知人の話をする。

 

私が誰にも世話になっていないと言うと
「そんなわけはない。誰だって人の世話になっている。
 そんなことを言うなんてお前は人に感謝できない人間だ」
と度々言われてきた。

 

場面場面で
私から頼み込んで
住む場所を借りたりお金を借りたりしたことはある。
助けてもらったことはある。

 

だけどその際には必ず必死に頼み込んだし
自分から先に沢山与えていた。
それに十分すぎるほどその分の感謝を示してお礼をして、返してきた。

 

世話をしてもらったというより
お互いにギブアンドテイクという形だったと思う。

 

こちらがお願いをしなくても、先に与えなくても
相手から私の心配をしてくれたり
親や師匠のように私を導いてくれるような人は本当にいなかったのだ。

 


あぁ書いてきて自分が可哀想になってきた。

 


私が人から
「正体が分からなすぎて怖い」
「知れば知るほどよく分からない」
と言われるのは当然なのかもしれないな。

 


私は多分
自分で自分を育ててきたんじゃないかと思う。

 


出会う人出会う人の
これを真似したいという部分
これが出来るようになりたいと思う部分だけを自分で選んで
少しずつ自分に取り入れながら生きてきた。

 

実際に出会った人よりも
本や映画の登場人物、偉人など方が多いかも知れない。

 

出会った人の影響をそのまま受けていないし
しかも偉人などから影響を受けているし
本当に少しずつ沢山の人から吸収してきたから
とても複雑な仕上がりになっているんだと思う。

 


それでも愛情が無ければ育たない。

 

だけど愛情も
育ち上がるぐらいの愛情を人からもらった経験はない。

 

どうしたのかと考えてみると

 

自分が努力して魅力的な人間で居ることで
憧れや敬意、恋愛関係の短く情熱的な愛情なんかを
沢山の人から少しずつかき集めて

 

自分から人の世話を沢山して私に愛着を持ってもらって
見返りの愛情をかき集めて
何とか生きてきたのかもしれない。

 


だから私にとっては
自分のルーツは誰か特定の人物なのではなく
私の過去の経験そのものなのだ。

 

トラウマを一人で乗り越えてきた過程で
自分の過去を洗いざらい思い出して
私は確たる私を手に入れたような気がしている。

 

まだ少し揺らぐのは
養父母に引き取られる前の記憶がほとんどないことと

 

後で書いていくけれど
多分、解離性障害だったせいで
記憶がすっぽりと抜け落ちた時期があることが原因なんじゃないかと思っている。

 

 

 

「養護施設にいた」
「虐待された」

 

「それは苦労があったでしょう」

良かれと思って言ってくれる。

 

ほんの10秒程度の想像で
私の人生がとてもシンプルにコンパクトにされて
死ぬほどの苦しみが小さく人に理解されているのが伝わってくる。

 


それなら
「あっそう。それで?」
って言われた方がまだマシだと思ってしまうのだ。