逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

自叙伝1 はじめに

二年前
臨床心理士として開業するにあたり
「集客はどうしたらいいか」
と悩みました。

 

楽観的というか、傲慢なところもある私は
時間が経てば
私だったら予約が取れないカウンセリングルームになるだろう
などと根拠の無い自信を持っていました。

 

でも一方で
臨床心理士がコネもなく、以前の職場からのクライエントもいないまま
開業した場合
最初の1年は悲惨だという情報がネットに溢れており

 

さすがに広告などの対策を立てなければ
家賃も払えなくなるかもしれないぞ
という危機感も持っていました。

 

どんなふうに宣伝をすればいいんだろう。
自分の売りは何だろう。
なんといっても波瀾万丈な人生だ。

 

だけど
臨床心理士としてはとても自己開示できる内容ではありません。
いえ、二人で話すときには自己開示出来ても
インターネット上に書くことは難しいと思ったんです。

 


臨床心理士の資格をとる前のことを思い出しました。

 


若い頃にやんちゃをしていたおっちゃん、おばちゃんは
最高のカウンセラーだ。
私はそんなカウンセラーになりたい。

 

そう思っていたので
最初は
この人生経験と沢山の人の話を聴いてきた経験だけで
カウンセリングルームを開業しようと思っていました。

 

でも同時に
「本当にそれでいいのか」と思ったんです。

 


私には沢山のコンプレックスがあります。

 

その中でも一番大きかったのは
「自分は真面目で道徳的な人間なのに
 生い立ちのせいで反社会的な人間に見られる。
 ずっと社会に存在しない人間になってしまった」
という思いです。

 

この話もおいおい書かせていただきますが
ずっと自分のせいではないのに
反社会的な人間に見られてきました。
社会には存在しない人間だと感じていました。
これが何より苦しかったんです。

 

安定して生活ができることとか
お金を稼ぐとか、有名になるとか、分かりやすい成功
それが全く欲しくなかったかと言ったら嘘になると思います。
でも一番の夢ではありませんでした。
社会で居場所を作ることが一番の夢でした。

 

ホステス時代、お金持ちに求婚されたこともあります。
飲み屋のママをやれば成功するとか
占い師として有名になれるとか人に言われてきました。

 

でもそれでは私は救われないと自分で分かっていたんだと思います。

 


社会に存在してみたい。
初対面で自分の何も見てもらえずに
現在の仕事で一瞬で軽蔑されることの悔しさはもう味わいたくない。

 

こんな思いがありました。

 


だからすぐにでもカウンセリングルームを開業できたけれど
約7年をかけて臨床心理士の資格を取る決意をしました。

 

とても褒められたことではないですが
学ぼうという気持ちはほとんどなく
恥ずかしながら、戦略的に
開業をしたいと考えてから大学に入り直し7年をかけ
臨床心理士の資格を取得したのです。

 


結果的には
勉強になったかは別として
資格の取得だけではなく人生経験として
この7年を経ての開業は意味がありました。

 

この7年のことはとても語り尽くせない苦労がありました。
詳しくはまた後で語らせてください。

 


話は脱線してしまいましたが
資格を取得までの7年で
その間にずいぶんと権威というものにやられて萎縮してしまいました。
自分らしさを忘れかけていました。

 


臨床心理士の資格を取得したけれど
もともと私は
「臨床心理士のカウンセリング」が売りなのでは無く
「波瀾万丈な人生を送ってきたけど何とかなった」が売りだった。

 

臨床心理士の経歴やスキルを求めるクライエントさんを集客しても
落胆させてしまうし、きっと私の力も存分に発揮できないだろう。

 

じゃあ波瀾万丈な人生を明かさなければいけない。

 

 

 

そうは言っても
まだまだ葛藤は消えません。

 


私の経験は明かしすぎると重たいので聞く側の負担になる。
重たい話を人に聞かせるのはよくないのではないか。

 

私自身、毒親との問題は解決していない。
突き止められたら
また人生を破壊されてしまう可能性が高い。

 

それに何より
これまでの人生の恥が多すぎて
目の前の人に話すことは出来てもブログなどで公開する勇気がない。
勇気が無いというよりプライドで恥をかきたくないという思い。

 

 

 

でもやはり

 

ここで自分の人生を明かして
自分が役に立てる人に出会わなければ
私は何のためにここまでこれほどまで苦労してきたんだろう

 

という思いが全てでした。

 


それから
「逆境から立ち上がった臨床心理士」という
あえて恥ずかしい名のブログに自分の経験を書くことにしました。

 


これが驚くことに
ブログ以外は宣伝は一切していないのに
1年もかからずに予約が埋まりました。

 

ブログを読んで申し込んでくれる人は
私の似たような経験を持つ人ばかりで
私の経験が本当に役に立ちました。

 

怖かったけれど
勇気を出してさらけ出して良かった。
つくづくそう思います。

 

 

 

最近になって
この恥ずかしい私の経験を
もっともっと詳細に語りたくなりました。

 


カウンセリングの途中で必ず
私は自分の恥ずかしい経験を語ります。

 

カウンセラーは自分のことを語らないやり方が一般的です。
自分のことをあえて語るやり方は
まだ少数派です。

 


私が会うクライエントさんは
自分だけが恥ずかしい経験を持っているという思い込みがあり
なかなか口に出せず
出したとしても自分を恥じているようでした。

 

そんな時
私が同じような、あるいはそれ以上に
恥ずかしい経験をしてきたことを話すと
クライエントさんは安心して話をしてくれます。
自分を恥じることをやめていきます。

 


カウンセラーが
「私も同じ経験をしている」と言うのは
なんの慰めにもならないと思います。

 

むしろ
「同じにしないでほしい」
という気持ちが生じることだってあると思います。

 


でも
カウンセリングが進んで
絆が生まれた後
私に対して敬意を持ってくれた後に限っては
有効だと思うんです。

 


そして
もしかしたらカウンセリングだけでなく
ブログで多くの人に
私が経験を語ることで
生きづらさが軽くなる人がいるのではないかと思いました。

 

 

 

現代の人は
自分を恥じて
隠そう隠そうという傾向が強いような気がします。

 


私なりに
これが原因では無いかと思うのは

 


自分の失敗を無かったことにして子どもを叱責する大人が増え
子どもは失敗が怖くなってしまい
恥ずかしい失敗が出来なくなってしまっている

 


若気の至りもあれば
人生に苦境があった人など
人には話づらいような経験を多くの人が持っているのに

 

それを隠して綺麗な部分しか語らない
いわゆるブランディングをする人が増え
親しくなっても自己開示をしない人が増え
自分だけが恥ずかしい経験を持っていると思う人が増えている

 


内面を明かさない、自己開示をしない大人が増えたせいで
子どもは自分を外側からしか理解できなくなってしまっている。
多くの人が内側でどれだけ苦悩しているかの想像力が欠けてしまっている

 


こんな理由で
自分の内面を明かせない人が
どんどん増えているのでは無いかと思うんです。

 


だから今
私のこれまでの人生経験の失敗や恥ずかしい話
自分の思いなどを語ることが必要だと思いました。

 

 

 


それだけではなく
私自身の思いもあります。

 

私は
これまで出会った人
クライエントさん

 

ほとんど全員の人に

 

「恵まれた人」
「元から優れている」と思われてきました。

 

この誤解は
私にとっては
死ぬほど苦しいものでした。

 

自分ほど恵まれていない状況の人には会ったことがありません。
元から楽をして出来たことはほとんどありません。

 

だから
どれだけ大変な状況で
どんな試行錯誤をしてここまでたどり着いたのか
いつも誰かに知ってほしい思いがありました。

 

 

 

私には発達障害があります。

 

自閉症スペクトラム(以下ASD)と
注意欠如・多動性障害(以下ADHD)です。

 


カウンセリングをしているうちに

 

自分と同じように
ASDやADHDがあっても
診断がつかない人が沢山いるということを知りました。

 


明らかに発達障害の症状があるのに

 

表向き上手に話が出来る人や
日常生活を何とか送れている人
何とか発達障害の特徴を生かしながら出来る仕事を探して
仕事が出来ている人などは

 

診断が下りなかったり
軽いから大丈夫だとあしらわれたりしてしまいます。

 


私自身は診断を受けて診断がつかなかったわけではありません。
診断を受けに行っていません。

 

様々な発達障害や愛着障害の専門家に会う機会は何度もありました。
その際に相談をしても
「絶対に違う」と言われてきました。
「君のような人が発達障害なわけがない」と笑われます。
「違うと思う」ではなく「絶対に違う」でした。

 

こんなふうに言われることは自分でも薄々分かっていました。
だからどんなに心がつらいときも
診断がつかないのではないかと精神科を受診できませんでした。

 

普段は普通よりも優れているように見られてしまう。
どんなにひどい状態であっても、つらい状態であっても
死ぬ気で人前ではちゃんとした姿を見せてしまう。
「困っていない」
「普通よりも恵まれている」
いつでも、そんなふうに見られてしまう。見せてしまう。

 

私はいつもこうやって沢山傷ついてきました。

 


診断がつかなければ自分も納得がいかないような気がして
困っていることが表に出ない私でも
しっかりと診てくれそうな発達障害で有名な病院を探しました。

 

そして予約をとろうと何度も電話をしたのですが
混雑をしていて電話は繋がらないまま何ヶ月も経過しました。

 


そのうちに
何のために診断が必要なのかと思うようになりました。

 

疑いようもなく自分は発達障害や愛着障害の症状があった。
診断名がついたとしても
発達障害についてはまだ分からないことだらけで
その診断名だって確実なものとは言えない。
誰かに認めてほしいわけでも、投薬が必要なわけでもない。

 

発達障害がありながらも頑張ってきたと
自分で分かっていればいいんだと考えが変わりました。

 


自己診断でここまで大々的に「発達障害である」と言い切ることは
とても勇気が要りました。

 

ずっと自分は
何かが人と違う、頭がおかしい、変人、狂っている、と思ってきましたし
人からも
変人、宇宙人、はみ出し者、異常者、性格が悪い、と言われてきました。
おかしいのは全て私自身の問題だとされてきました。

 


小さい頃の私は発達障害そのものでした。
苦しみながら少しずつ修正しながら生きてきました。

 

やっとのことで折り合いをつけられるようになって分かったのは
苦しみながら障害の部分を修正している状態は
周囲からは全く理解されないということです。
修正すればするほど、余計に苦しみは理解されなくなるということです。

 


これから書ける限り書いていこうと思いますが
外側からは見えないところでの
発達障害の自分との戦いは過酷なものでした。

 

もし私がこれを言葉にすることが無かったら
これは全て闇に葬り去られていたことです。

 

当事者はこれに気づけない。
死ぬほど努力をしているのにそれを言葉に出来ない。
あまりに当たり前に努力をしていたせいで言葉にしていいと思っていない。
自分だけの苦しみだと知らないんです。

 


発達障害についてはまだまだ分からないことだらけです。
ADHDなのかASDなのか診断が二転三転する人も多いです。
困りごとがどちらの障害からくるものかも分からないものも多いです。

 

診断がつかない人や症状が軽いとされる人に大事なのは
自分はどんな性質があったのか
どんなことに困っていたのか
どんな努力を重ねてきたのかを自分で知ることだと思っています。

 

私が自分自身の経験から分かったことを詳細に書くことで
忘れていた経験を思い出すきっかけになればと思っています。

 


私のことを
「診断がついていないなら発達障害ではないだろう」
とおっしゃる方も
読んでいただければ理解いただけると思っています。

 


ADHDやASDについての情報も
診断のために外側から観察されたことが主になっていて

 

当事者が内側でどのような思いがあったり努力をしているのかを
書かれているものはまだ少ないと思います。

 


外側からみて、「このような症状がある」というのは
診断する側に必要な情報なのだと思うんです。

 

発達障害の人はそのような情報で
余計に自分自身のことが分からなくなってしまうと思います。

 

発達障害の人の心のケアには
自分自身を理解することが一番大事だと私は思っているので
外側からの自分を理解することは
逆に自分自身が分からなくなると私は思っています。

 

 

 


また私と同じように
機能不全の家庭で育っているのに
なんの苦労もないように見られてしまう人が沢山いることも知りました。

 


明らかに愛着障害の症状があるのに

 

表向きは立派な大人のような振る舞いをして
仕事は立派にこなして
自分を偽りながら人間関係もこなしている人などは

 

誰からも困っているように見えず
ただ一人で苦悩を抱えてしまいます。
そのような人たちが
私のように人知れず苦しんでいました。

 

 

 

開業して2年経った今思うことは
私が力になりたい人は沢山いるけれど
きっと私にしかできないこと、私がやりたいことは

 

「診断がつきづらい発達障害や愛着障害の人」
の心のケアだということ。

 


診断がつく人が症状が重い、つかない人の程度は軽い
とされていますが私はそうは思いません。
どちらが大変か比べられるものだとは思わないんです。

 

どんなに努力をしても出来ないという苦しみ
障害を認めながら生きていかなければならない苦しみは
相当なものだと思います。

 

でも、ギリギリの状態で努力をし続けて何とかやっているのに
普通の人として見なされ、努力が足りないと怒られ軽蔑される
あるいは軽いものだとされる
死ぬほどの努力と苦しみが闇に葬り去られる苦しさも相当なものです。

 

どちらも苦しいのには変わりは無いのではないでしょうか。

 


長くなりましたが
このような経緯で
自分の人生を詳細に語りたい
自叙伝を書きたいと思いました。

 

私の自叙伝は
発達障害のことだけではなく
養護施設出身者としての苦しみや
虐待経験者としての苦しみなどが沢山あり
話は複雑になってしまいますが

 

これらのことを分けて書くのはとても難しいので
自叙伝という形で
私の人生をまるごと書かせてもらおうと思います。

 

どこまで長くなるか分かりませんが
お付き合いいただけると嬉しいです。