逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

カウンセリングは私の至福

今日はとっても気分がいい。

 


私にとって嬉しいことって

 


美味しいものを食べているとき
猫とたわむれているとき
人と楽しく話しているとき
人が機嫌が良いとき
人が誠実なとき
心を揺さぶられる映画に出会ったとき
おしゃれをして颯爽とあるくとき
的外れではなく褒められたとき
愛されていると感じたとき

 


まぁまだまだあるけど
こんな感じでしょうか。

 


うれしいと至福ってまた違う。

 

もうとんでもなく幸せ!という気持ちがこみあげてくる感じ。

 

 

 

私の至福って

 

私の努力が報われたとき
人の努力が報われたとき
人と一緒に一つの目標に向かって一心不乱になれるとき
複雑な私を理解しようとしてくれたとき

 

 

 

なんと

これが全て満たされることがあるんです。

 

 

 

それがカウンセリングなんです。

 


私がカウンセリングが好きで好きで仕方がないのは
こういう理由なんです。 

 



いきなりですが

 

私は多面性があるので

理解されるまで時間がかかるし誤解されやすいです。

 

言動を沢山見てもらって
全部つなげてもらえると誤解は解けていくけど

 

部分部分を切り取ったり
思いこみで捉えられると

 


ふざけた人
熱すぎる人
決めつける人
頼りない人
真面目すぎる人

厳しい人
甘すぎる人

 

悪くバラバラに決めつけられてしまう。

 

 

カウンセリングでは
一見マイナスに見えるこういう面が全部必要で

 

最初からバランスがとれているよくできた人間像で接したら
カウンセリングは成功しないと私は思っています。

 


カウンセリングを続けていると
私への(というよりカウンセラーへの)不信感は
多くの場合、出てきます。

 

どうしても

クライエントさんが過去に傷つけられてきた人

と重ねてしまうからなんですね。

 

 

それでも
それまでの私の言動をすべて総合して見て


本当に信用ができない人なのか考えて葛藤してくれたら
不信感を無くそうと話し合ってくれたら
それは無くなります。

  


カウンセリングが進むということは
複雑な私を理解してくれた
(理解してくれようとした)ということ。

 

大変なことなので本当にありがたいんです。

 

 

カウンセリングの過程で私も本当に苦しみます。

 

 

当たり前ですね。


一人の人生がかかっているんですから。

 


このプレッシャーは

生きるのにギリギリの方のカウンセリングをした人にしか

分からないかもしれません。

 

 

こう言うと
クライエントの人生を背負うやりかたは失格
なんて言い出す人がいますが

 

ちゃんと
クライエントさんの人生は自分で負ってもらって
自分はそれを手助けすることしかできないと自覚をしてますよ。

 

でも

その少しの手助けだって
人の人生を大きく動かすんです。

 

 

少しの手助けだって責任は重大で
だからこそ真剣にやれるんです。
(必要に応じて真剣にふざけるのもあり)

 

 

 

そしてもちろん
当事者のクライエントさんも頑張っている。

 

 

「自分の人生を変える」ために 


面倒なことをコツコツやって
見たくないものも見て
責任転嫁もせず

怖いことも勇気を出してやっている。

 

相当な努力です。

 


こんなふうに
一心不乱に
「クライエントさんが楽になる」
「クライエントさんが人生を変える」
ために共同作業をする。

 

雑念無しで
一つの目標に一緒に一心不乱になれる。
この瞬間が至福なんです。

 

 

 

そうして
クライエントさんが楽になったら?

 


私の努力が報われた
人の努力が報われた

 

いっぺんにやってくるんです。

 


もうね
この幸福感って
とんでもないものです。

 


ゴールまでは長くかかります。
(その人のゴール設定にもよりますが)

 

でも明らかに変わった。進んだ。
という瞬間は何度もやってきます。

 

このたびに
この幸福感がやってくるんです。

 

 

今日もクライエントさんが大きく回復したと実感できた。

 

カウンセリング開始時から
何度もぶつかったっけと思い返しながら涙。

 


まだまだ先はありますけど

 

ここまできたら大丈夫なんて思っていて
ホッと胸をなでおろしてます。

 


綺麗事みたいだけど

 

本気で頑張っているカウンセラーにとっては
クライエントさんの変化は
何ものにも代え難い喜びなんです。