逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ASD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

共感性は高くなくても大丈夫

共感性が無ければ人としてダメ

共感性が高いことは人格が優れている

 


なんとなく
そんな風潮があるようだと思いませんか。

 

 

でも私はこれに疑問を感じてるんです。

 

 

共感性が高すぎることで

苦労が多かった私だから持つ疑問かもしれません。

 

 


どんなことにも
良い面と悪い面があります。

 

みなさん頭では分かっていますよね。

 


でも「絶対的に良い面しかない」

 

そう思い込んでいるものって多いですよね。

 

 

優しいこと

正しいこと

完璧であること…

 

こういうことは悪い点が見過ごされやすいんです。

 

 


共感性もそうです。

 

何故か素晴らしいもので悪いことなんてないと

思われがちです。

  

 


共感性の高さの良い面はなんでしょうか。

 

 

苦しんでいる人に寄り添って苦悩を一緒に感じて和らげられる

 

孤独を感じている人を温められる


その人の内面を理解できる

 

人と距離を近づけることができる

 

 

このようなことでしょうか。

 

 

でもこれって

絶対的に良いことだと言えるでしょうか。

  

 

 

共感性の高さも度を越すと

 


その人を理解して

その人の問題を背負いすぎれば


その人を依存させてその人の力を奪うことになります。

 

 

共感をしすぎて距離が近づきすぎれば


その人と自分の境界が曖昧になってしまい

余計ないさかいが増えてしまいます。

 

 

  

共感性もその人が望んでなければ

良いことでもなんでもありません。

 

 

苦しみを忘れたい時には共感は迷惑になります。

 

1人で閉じていたい時は

共感は人に踏み込まれている感じがします。

 

内面を知られたくない時には

共感はただ脅威でしかありません。

 

 

誰もがいつでも共感を求めているわけではないんですね。

 

 

 

 

共感性の低さにも良いところはあります。

 


自立した人間同士であれば良い距離感が保てます。

 

人のことが分からないと認めることで
人に対して偏見のない関わりが出来ます。

 

冷静に人を見ることが出来るので

人の問題点に気づきやすいです。

 

 


こんなに良い面が沢山あるんです。

 

 

 


これまで
共感性の低さは悪い面ばかり指摘されていますよね。

 


人間味がない

人を傷つける

人の気持ちが分からない

 

 

これも考える余地があると思いませんか。

 

 

 

人間味を好む人が多いのは事実ですが

冷静さを好む人もいます。

 

人間味の代わりに冷静さで人の役に立っている人は沢山います。

 

 


共感性の低さが人を傷つけるのは

それだけが原因ではありません。

 

自分は共感性が低いのに

人には共感してほしいと求めるところに原因があります。

 

 

人の気持ちが分からないことも


そもそも人の気持ちが分かることが絶対的に良いことなのか
共感性が高い人でも本当に人の気持ちが分かっているのか


そこに疑問を持てば批判はできません。

 

 


共感性の低さは

 

自己中心性と結びつけば害をもたらします。


自己中心性さえ克服できれば
人に迷惑をかけません。

 

 

共感性が低いこと自体が

人間性が悪いわけではありません。

 



共感性の低さは

  

人から責められてばっかりですが

本当に問題なのは本人のつらさなんです。

 

 

さきほど書いたように

 

責められやすく人間性を疑われたりしやすいので
自尊心が低くなり自己肯定感が低くなります。

 


また
自分の感情に気づけないので
ストレスを抱えやすくそれが体の不調となって表れる。

 


共感性の低さは悪いことではなくて


本人が大変な思いをする可能性があるだけです。

 

 

 

また

この共感性の低さは直らないものではありません。

 

もともとの低さはあっても
そこから少しづつ学びトレーニングを重ねれば
高めていけるものです。

 

 

 

共感性は高ければいいものではないし

共感性は低ければ人としてダメなわけではない

 

 

共感性の高さばかりを盲信してしまうのも

共感性の低さに劣等感を感じてしまうのもやめて

 

自分に合った共感性の高さや使い方を選んで

自分らしく生きていきたいですね。