逆境から立ち上がった臨床心理士

―ADHD・ギフテッド・養護施設出身の被虐待児―

ADHDは免罪符ではなく名札である

なんとなく

ADHD発達障害の診断を受けたい人は

 

「私は発達障害。大変だから理解して」
というような
感覚をお持ちの方が多いようで

 

そこに違和感を持つのです。

 


これが

本人の力を奪うことになるので
個人的に止めて欲しくて仕方がないのです。

 


発達障害


多数派と比較すると
できないことが多くて
社会生活が難しい。


理解もされずに偏見をもたれ
ただ非難されて
ずっと我慢してきた。

 

そのつらさは
本当に大変なものです。

 

でも
だからといって
診断が出たから
理解して。庇護して。
というのは・・・

 

それとこれとは
話が別じゃないかと思うんです。

 

当事者だから
辛辣なことを言っても
許してくださいね。

 

ちょっと
考えてみて欲しいんです。

 

自分のせいじゃないのに
社会生活が難しい人。
理解もされずに偏見をもたれ
ただ非難されている人。

 

発達障害の人だけでしょうか。

 


難病の人や
何らかの障害をもつ人
機能不全の家庭で育った人
などなど
沢山の人がいるはずです。

 

その全ての人を理解して庇護するのは
現実的にとても難しいです。

 

そして
発達障害の私たちですら
声を上げられない少数派に気づかず
偏見を持ってしまっている可能性だってあります。

 

多かれ少なかれ
みんな事情を抱えている。


お互いの理解はもちろん必要だけど
それぞれが自分の事情だけを声高に叫んでいたら
理解をしてもらうことも
自分がその他の少数派の理解をすることも
難しくなってしまいます。

 

理解を求めるにしても
他にも事情を抱えている人が大勢居る
自分なりに出来ることは諦めずにやる

 

そんなふうに考えながら理解を求めたら
もう少し
免罪符のようなニュアンスは

無くなるのではないでしょうか。

 

発達障害

ただ知らせるだけの名札みたいなもの

なのではないでしょうか。

 

 

また
人は言葉に強く影響されます。
イメージトレーニングを強くします。

 

 

発達障害だからできない
と言ったら
できることもできなくなります。

障害とレッテルを貼られていた

素晴らしい能力も
本当の障害に変わってしまいます。

 

 

本当は少数派なだけで
多数派が持てない能力を持っています。

でもそれが
発達障害だから仕方ない
と思った時点で
障害に変わります。

 

発達障害
楽に生きる
という観点では
不利に出来ていると思います。

 

でも
希少価値がある。

多数派はいつも埋もれていて

自分だけの何かが欲しくて仕方ない。

 

私たちには埋もれない何かがある。

 

だから
どうかADHD発達障害を免罪符にせず

大変な苦労があっても

頑張っている自分を認めながらも


その能力を高める努力は無くさないでほしいのです。